Cat’s purr

トリアタマ用メモブログ

14:46

3月11日の東日本大震災で被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。


仙台在住なので、私もあの日は今まで経験したことのない激しい揺れを体験した。
そのときの出来事をメモしておこうと思う。


金曜日、あと数時間で今週が終わるという午後。事務所には私一人で、今日中の仕事を抱えてパソコンに向かっていた。そんな時、マナーモードにして机の上に置いていた携帯電話が異様な大音量で鳴り始めた。後から考えるとそれは緊急地震速報だったのだが、先週新しい携帯に買い替えたばかりだったのでその時は何なのか分からなかった。(古い機種にはそんな機能はない)というより、警報が鳴るのと揺れが来たのはほぼ同時だった。

あきらかに尋常ではない強さの地震。とっさに石油ストーブを消した。2台ある大型コピー機が目の前で踊り出し、植木がみんな倒れていく。建物のきしむ音が大音量で迫ってくる。思わず机の下に潜り込んだ。
ついに来たんだ、「宮城沖」が。そう思いながら机の脚にしがみついた。


縦揺れは短く、少し弱い横揺れに変わる。「もうおさまるかな」と期待した途端、大きな横揺れへと動きがどんどん加速していく。いつもならとっくにおさまってもよさそうなのに、ゆっさゆっさと地面がいつまでも揺れている。机の引き出しが全部引き出され、ゴゴゴゴゴゴ…という地鳴りのような音と、物や家具が落ちたり倒れたりするガシャンガシャンという音が鳴り止まない。恐ろしくて、心臓が早鐘のように鳴っている。
このまま揺れ続けたらどうなっちゃうんだろう。母は、妹はどうしてるんだろう。もう会えなくなったりしないよね?
恐怖と不安で叫んだような気がする。ゴゴゴ…とやや地鳴りがおさまってきて、終わらないのではと思った横揺れがやっと止まった。


辺りは静かだった。
机の下から這い出すと、電気が消えて非常照明が点いていた。停電だ。
事務所内は足の踏み場もないほどすべての物が落ちていた。パソコンも私のラジカセも硬い床の上でバラバラになっていたし、モニターは机の上からコードでぶら下がっていた。コピー機は数メートル先まで移動していた。

窓を見ると、歩道に人影が見えたので外へ出てみる。またグラグラッと揺れる。揺れる度に建物がギシギシ言うのがとても怖い。向かいの美容院のスタッフも全員外へ出てきていた。歩道でしゃがんでいる人、とにかく外の様子を見に来た人と無言で目を見交わす。
事務所の少し先の道路に亀裂が入り、アスファルトが大きくめくれ上がっていた。よく見ると歩道も数十センチ陥没してタイルが崩れている。振り返ると後ろの道路にも大きな亀裂が入って段差ができていた。
隣のクリーニング店はガラスが割れて、その裏の民家の玄関は歪んで斜めになっていた。

うちの事務所はまだ建ってから3年くらいで、歩道に面して大きなガラス窓がはめ込んであるが、よく割れなかったと思った。この建物は自社ビルではなく賃貸だが、社長が設計して私が構造計算した木造2階建てだった。
よかった…筋違いっぱい入れておいて。混乱した頭でそんなことを考えつつ、すぐに母に電話してみたがやはりというか繋がらない。社長にもかけたがダメだった。社長は現場回りでどこにいるのかわからない。

ワンセグでニュースを見ると、津波警報が出ていた。尋常ではない規模の地震だったから、もしかしたら大津波が来るのかもしれない。大変なことになった。
そうは思っても、頭が真っ白で、今自分がどうすればいいのかわからない。また揺れる。外へ出る。家族が心配だから帰りたい。でも目の前の道はどんどん渋滞が酷くなっていく。亀裂の所が通れなくなっているみたいだった。みんなどこかへ非難するのだろうか。自宅へ帰るのだろうか。私も帰りたいがまだ勤務中だった。でも、停電してパソコンも壊れたし、会社でできることはもうない。社長に連絡を取って帰りたい。携帯はまったく繋がらず、メールも送信できなかった。

歩道に出て道路の亀裂を呆然と見ていると、隣の居酒屋の兄さんが「大丈夫?」と話しかけてきた。店の前に亀裂が出来て車が駐車場に入れないから、お宅の事務所前に止めさせてくれ。そんなことを言われて頭がハッキリしてきた。「皆さん大丈夫ですか?」そんな風に声を掛け合う。他の近所の人とも話しているうちに、だんだん気持ちが落ちついてきた。人間は人と会話すると冷静になれるんだ。知らなかった。ありがとう居酒屋の兄さん。ほんとうにありがとう。


社長と連絡は無理だろうと諦め、倒れたものや割れたコップなどをざっと片づける。無事だったモニターは余震が来ても倒れないように膝掛けを敷いた床の上に伏せて置いた。
社長にメモを書いて机の上に置き、戸締まりをして事務所を出た。道路は大渋滞だけど、なんとか少しずつ進めそうだ。とにかく自宅へ帰って母と妹の無事を確かめよう。そう思って車のエンジンをかけた。

自宅までは車で30分。ラジオではひっきりなしに津波から非難するように呼びかけている。私の生活圏は沿岸部ではないが、もし知人が被害にあったりしたらどうしよう。現場回りの社長が巻き込まれていたら…。暗い考えが頭を過ぎるが、今は亀裂だらけで信号も消えた道をなんとか通って家まで行かなければならない。災害で離ればなれになったら自宅周辺で落ち合うことになっているし、とにかく行く以外に方法はなかった。

亀裂で通れなくなっていると困るので、なるべく大きな道を選んで行く。信号の消えた大きな交差点はとても怖かったが、みんな譲り合ってそろそろと進んでいた。橋と道路の継ぎ目はほぼ全て10センチくらいの段差になっている。道路のほうが沈み込んでいるようだった。路面の状態を見ながら徐行運転をしてあと半分ほどのところまで行くと、渋滞でまったく動かなくなってしまった。

車に乗っていても大きな横揺れを感じる。津波警報の合間の地震速報。母や妹のことを考えると胃がねじれるみたいな気がした。そんな頃、視界が真っ白になった。大粒の雪がブリザードのように舞い上がってあっという間に世界が白くなる。3月とは思えない光景だった。もうこの世の終わりなのかもしれない。そんな気持ちになる雪景色だった。

渋滞はジリジリと進まない。高速道路の上にかかる橋を通過するときは恐ろしかった。橋梁段差が大きく、今にも落ちてしまうような気がするのに、渋滞で橋の上からなかなか移動できない。あちこちの建物でガラスが割れたり塀が落ちたりしていた。防空頭巾を被って母親と手を繋いで歩いている子供がいる。皆なにか大きな荷物を抱えてどこへ行くんだろう。コンビニの前に数人の列が出来ているけど、食べ物や飲み物を配っているんだろうか? とにかく今は早く帰らなければ。
渋滞が途切れてようやく進み出す。見慣れた建物が遠くに見えてきたとき、ホッとして涙が出た。とにかく、建物が倒壊していたりはしないようだ。きっと家族も大丈夫だ。そう思って駐車場へ急いだ。

車を降りて、自宅まで歩く途中に母の駐車場の前を通る。そこに母の車が止めてあって、中に母と妹の姿を見たとき、駆け出していた。今考えると沿岸部でもないのに大袈裟だとは思うが、このときは本当に嬉しくて妹と抱き合って泣いた。怖かった気持ちが一挙にほぐれた。
母と妹は外出先で地震に遭い、渋滞の中戻ってきたが家の中はめちゃくちゃで、余震がやまないので屋内にいることができず、私が戻るまで車の中にいたらしかった。


携帯は相変わらず繋がらない。公衆電話は繋がるらしいと聞き、入院している父の病院へ近くの公衆電話から電話してみる。テレホンカードは停電で使えないが、硬貨を入れるとツーと音がして通じていた。病院にはすぐに繋がり、全員無事だということだった。こちらの安否を伝言して電話を切るとお金が戻ってきた。災害時は公衆電話は無料なんだ。今って災害時なんだ。側には誰かが置いていってくれたらしい100円玉があった。

辺りはどんどん暮れていく。夕方に降った雪は嘘みたいに晴れて、星が出始めていた。余震で建物内に入れなかったり、一人暮らしで不安だったりする人はこの地区の避難所である小学校へ行っているようだったけど、私たちは寒さがしのげる自宅へ戻ることにした。余震で建物が崩れても、家族一緒ならいいと思った。
屋内はもう真っ暗で何も見えないので、散らばったものをざっとどかして、大きな家具のない部屋に3人分のふとんを敷いた。近所の人にもらったお菓子や家にあった食料を少し食べて、すぐに逃げられるように服を着たままふとんに入った。まだ7時くらいだったが、地震から何十時間も経っているような気がした。

ラジオからは甚大な津波の被害のニュースが流れていた。カーテンを引いていない窓から見える夜空は普段は見えない星でいっぱいだった。
近所は誰もいないのか真っ暗でものすごく静かだった。サイレンだけがひっきりなしに鳴っている。津波のニュース。余震の警報。日本はどうなってしまうんだろう。連絡の取れないみんなは無事だろうか。
眠れないかと思ったが、うとうとしていると余震が来て飛び起きる。そんなことを繰り返しているうちに夜が明けてきた。あれは悪い夢だったんじゃないか。そう思いたかったが、ラジオは相変わらず津波の被害を伝えていた。


それから二週間以上経って、仙台市内陸部の生活は元に戻りつつある。幸いにも、私は家族も知人も皆無事だった。
道路や橋はあっという間に修復されていくし、電気と水道が復旧して、スーパーで物が買えるようになってきた。
電気ポットで沸かしたお湯でシャンプーするのもすごく上手くなった。
ガソリンを並んで買うのにも慣れてきた。
新刊は入ってないけど本屋さんも再開したし、昨日の夕方は暗くなっても明かりが点いているコンビニがあった。
当たり前すぎたことがどれだけありがたかったかがわかった数日間だった。

テレビやネットの報道では、応援メッセージが溢れている。義援金の寄付もたくさん寄せられている。
たくさんの人に助けられた数週間だった。地震のあと声をかけてくれた人、信号で道を譲ってくれた人、貴重な物資を分けてくれたり、給水用のポリタンクを貸してくれた近所の人、情報を知らせてくれた人、連絡をくれた友人、非常時に店を開けてくれた人……たくさんの人のお世話になった。
平時だって同じようにたくさんの人に支えられていたはずで、当たり前が当たり前であることに感謝していただろうかと思う。

そして今、私になにができるだろうか。仕事が再開するまでの自宅待機中、給水や物資の調達に並ぶ以外することがなかったとき、そんな風に考えた。
節電や募金以外にできることがあるとすれば、それは普段通りに過ごすことではないかなと思う。
落ちついてなるべく普段通りに生活する。いつものように買い物をして、余裕があればレジャーやイベントを楽しむ。必要以上に自粛したりすることのない普段通りの生活が、日本を支える力になるのではないかと思うのだ。

ほとんど報道されてはいないが、津波の被害がなくても市内の建物損壊は酷い状態だった。倒壊こそ少なかったが、庭に亀裂が走って建物が傾いたり基礎が割れたり、住み続けるのが困難な家も相当数あった。
それでも被災地優先で重機も材料も入手が難しく、しばらくの間ガマンするしかない状態だ。
がんばろうというより、ガマンしようという人がまだきっと多い。だから、ガマンしなくても大丈夫な人は、普段通りの生活で日本を支えてほしいと思うのだ。

自分は被災者ではないと思う。生活が前より不便になっただけで被害はないからだ。だから、普段通りの生活をがんばって続けようと思う。
そして感謝の気持ちを持ち続けたいと思う。
原発から非難している友人が地元に早く戻って来られるよう祈りながら記す。